和歌山県(みかん県)

紀伊国の語源は木ノ国であるというのが定説で、古来より木材の産地として知られてきました。これは高温多湿の気候と深い山々の地形が生み出したものです。弘法大師空海もあえて都を離れて海抜1000メートルに近い山に囲まれた高野山上に霊場を開きました。

 

和歌山県といえば紀伊の国ですが、尾鷲市や熊野市などを含む東部を三重県に譲っています。太平洋に沿ってJR紀勢線で行くと和歌山から新宮まで約200キロ、そこから三重県側の紀伊長島まで約82キロにも及び、しかも、紀州藩は伊勢の松阪までも領地としていたのです。そういった意味で、紀伊東部の一部を三重県に入れたのは自然な選択だったといえるのではないでしょうか。

 

戦国時代の紀伊国では雑賀一揆や根来衆などが武装し大名たちの勢力浸透を許しませんでしたが、それを平定した豊臣秀吉は弟の秀長に大和や和泉と共にこの国を与えました。

 

その秀長は大和郡山に本拠を構えたのですが、紀伊国統治の中心として紀ノ川河口に近い虎伏山に城を築き、これを家老の桑山重晴に与えたのです。河口近くの平野の真ん中にそびえる小高い丘という近代城郭としては理想的な立地条件でした。

 

和歌山はもともと若山と表記されることが多かったのですが、明治になってより優雅な和歌山という漢字に統一されました。紀伊の国はその後、浅野氏らを経て、元和年間に徳川家康の第10男である頼宣に与えられて徳川御三家の居城となりました。

 

和歌山県人の気質は、南部と北部で違います。南部は陽性で義理人情に厚く豪快、北部は大阪に近いことからも都会的ですばしこいなどと言われています。

 

南部を代表する有名人は古くは紀伊國屋文左衛門であり、近代では博物学者の南方熊楠。どちらも、日本人離れしたスケールを持つ大人物です。一方、北部では松下幸之助氏と『紀ノ川』や『華岡青州の妻』など地元の題材も小説にした有吉佐和子氏でしょう。

 

現代の和歌山県人を代表しているのは、西武ライオンズの東尾修元監督。東尾さんは簑島高校のエースとして甲子園を湧かせ、現役時代も監督になっても闘志あふれるスポーツマンとして感動を与える一方、賭博事件に巻き込まれたりする勇み足も見せています。

 

近代的な産業としては、住友金属工業の和歌山工場がありますが、主力は茨城県の鹿嶋に移ってしまいました。新しい企業としては、電子制御されたニット製品などのコンピューターで制御された自動編み上げ機械で知られる島精機製作所と店頭での現像焼き付けが可能な機械を開発して写真の楽しみを拡大したノーリツ鋼機がいずれも和歌山市を本拠にしています。

 

これまで幹線交通網からはずれていた和歌山ですが、「五全総」(第五次全国開発総合計画)では「太平洋新国土軸」というのが話題になりました。九州から四国、淡路島を経て和歌山、奈良南部、三重南部を通って渥美半島へ抜けるルートで、いずれ紀淡海峡大橋を含む高速道路で結ばれることが期待されています。

更新履歴